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頑張れ日本!全国行動委員会 茨城県本部

教育について

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教育について

学生時代、学校の“お勉強”が嫌で仕方なかった自分は、親に「お勉強はなぜしなくてはならないのか?」と尋ねた際「良い高校に入って、良い大学を出て、(給料の)良い会社に入るのが幸せで、将来楽するために今頑張りなさい」というような返事を受け、到底納得できず、やる気も起きず、腑に落ちないまま学生生活をやり過ごしました。

それらのモヤモヤが晴れてきたのは30余年たったつい最近のことです。明治維新以降、学問は立身出世のための手段となりはてたこと、親の世代は戦後教育で徹底的にユダヤ普遍主義(個人主義)を叩き込まれていることなどを知り、自分の腑に落ちない感覚は間違っていなかったのだと腑に落ちました。

さらにその感覚をより腑に落としてくれたのが、水戸藩九代藩主、徳川斉昭公の時代に記された弘道館記の解説本(水戸の碑文シリーズ2 水戸烈公と藤田東湖『弘道館記』の碑文 但野正弘著)でした。その中に、忠孝无二(ちゅうこうになく)文武不岐(ぶんぶわかれず)学問事業(がくもんじぎょう)不殊其效(そのこうをことにせず)という一節があります。

「忠」は天皇陛下の本業、大御心への奉仕、「孝」は国民各々が親に誠を尽し、人倫道徳を正しく踏み行うことで、孝も忠の内であり、忠孝は人々の身近にある。→忠孝无二

「文」は学問を通し道義、道徳、為すべき道を究明すること、「武」は実践、実行に移す武勇。「文」のみでは軟弱で、いざという時役に立たない。「武」のみで学問を怠れば正邪の判断がつかず蛮勇、暴力になり、それは武勇ではない。→文武不岐

「学」は道を学ぶこと、「問」は道を問うこと、「事業」は究明した道を実地に行うこと。→学問事業

学問と事業とは、その效(働き)を別個に考えてはならず、一つの精神で貫かれていなければならない。→不殊其效

自分が学生時代に知りたかったのはまさにこういったことでした。文武不岐、学問事業に似たような言葉で“文武両道”というものはありましたが、それは試験の成績が良く、且つ運動部でも活躍し双方を両立させていること、頭も体もバランスよく鍛えよ、程度のことで、決して十分とは言えない意味で使われていた気がします。我が国にはすでに江戸時代から国柄を基にした教育があったにも関わらず、戦後、大本を曖昧にした上辺の教育が、気付かれぬよう巧妙に今も行われています。アメリカも上手いことやってくれたもんだなあと思いますが、当人たちもここまでうまくいくとは思っていなかったのではないでしょうか。日本の自主独立を阻止したいアメリカの意を継いだ敗戦利得者たちが、戦前の教育に、軍国主義→戦争といったレッテル張りをして触れさせないよう必死になっているというのは、戦前の教育にこそ、自主独立に重要な、国柄を基にした本来あるべき教育があるからに他なりません。 

もしも冒頭の問い「なぜ勉強が必要か?」に対して「国民各々が日本人としての道義、道徳、為すべき道を学び、問い、究明し、それを実践で正しく踏み行い、自らの分を尽すことで親、先祖、同胞、子孫へ孝行し、そのことが天皇陛下の大御心(国民の幸せと安寧をお祈り下さる心)への忠義を為し、その調和を君民一体で窮まり無く創造発展させるためですよ。」という返答があったら、私は猛烈に勉学に励んだ…かどうかは分りませんが、大いに納得はしたと思います。

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コメント

1. 自分の頭で考えていない人「

>為すべき道を学び、問い、究明し、

学問をすると新たな疑問が沸いて来ます。その疑問は自分の疑問なので誰も教えてくれません。なので究明は自分でしなければなりません。でも自分でその解が見つけたとしても正しいとは限りませんので自信たっぷりとは行きません。

ところが所謂サヨクの人には上から目線で自信たっぷりの人が大勢います。何故彼らが自信たっぷりなのかと言うと、自分で考えていないからです。この点サヨクの人の言動は、教祖の言葉をなぞるだけのカルト宗教信者によく似ています。まあ共産主義はカルト宗教のようなものですけど。

例えば経済学を学んでいながら、国の借金を心配して増税を是認する人ななんかも、自分の頭で考えていない人でしょう。政府が財政出動しようものなら怒り出しますから。ちょっと自分の頭で、お金はどうやって生まれるかと考えれば分かりそうなのに、学ぶだけで究明しなかった人の例です。

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